高山の町並みを歩いて触れる「飛騨の匠」の技
多くの観光客が訪れる高山市内の古い町並周辺を散策すると、歴史的な建築物や寺院など、至る所に飛騨の匠の技を見ることができます。「飛騨の匠」の歴史から、ユネスコ無形文化遺産の高山祭の屋台、「飛騨の家具」に至るまでの技が培われたストーリーを、田中彰さんに聞きました。
<この記事は、(株)岐阜新聞社と岐阜県観光連盟との共同企画で制作しました。>
訪ねた人:田中彰さん
高山市に生まれ、高山市教育委員会の文化財担当を30年勤める。飛騨国の歴史研究、埋没文化財の発掘調査、高山祭の屋台保存に従事し、現在は高山市史編纂専門員。
縄文時代から豊富な樹木と慣れ親しんだ飛騨の人びと
「標高3,000メートルの雄大な山々に囲まれた飛騨地域。気候や風土の特性により、育つ樹木の種類は日本一です。縄文時代から山の麓に住み始めた飛騨の人びとは、食べられる木の実や薬になる樹皮、家づくりに適した幹など、木の特性を見極める技術が身に付いたのでしょう。縄文時代の竪穴住居跡からも、木工に使う斧やのみなどの石器が大量に出てきましたよ」。
教えてくれたのは、飛騨地域の歴史研究や発掘調査に長年携わり、飛騨の匠に関する数々の謎を紐解いてきた田中彰さん。
飛鳥時代から称えられた匠たち
「飛騨の匠」の歴史は、飛鳥時代まで遡ります。政治の中心として威厳のある都を築くため、天皇の宮殿や寺院などの建築が必要でした。そこで高い木工技術があると知られていた飛騨の技術者たちが都に呼ばれたのです。奈良時代には全国で唯一、納税の代わりに木工技術者を都へ派遣する「飛騨工(ひだのたくみ)制度」ができ、毎年約100人の技術者が都で腕を振るいました。その高い技術と実直な働きぶりから、いつしか「飛騨の匠」と称されるようになったといいます。
大イチョウで有名な飛騨国分寺の現在ある本堂は室町時代のものですが、その1メートル下には飛騨の匠たちが奈良時代に建てた跡が眠っています。
散策しながら、飛騨の匠の技に出会う
「飛騨工制度」は平安時代後期まで続き、その後も飛騨の地で技術を継承してきました。
「匠たちは山を見て、この木は大黒柱にいいとか、この曲がった木は梁に使おうとか決めたんでしょうね。明治時代に建てられた吉島家住宅や日下部家住宅はその傑作です。飛騨民俗村・飛騨の里でも、合掌造りをはじめ、気候に合わせて建築や構造を工夫した匠の技を見ることができます」。
高山市内では、さまざまな場所で飛騨の人びとの生き方を垣間見ることができます。
城下町とともに文化としての意匠が発展
飛騨地域は、豊臣秀吉の命を受けて攻め入った金森長近が1586年に統一。今の高山市街地につながる城下町をつくりました。16年の歳月をかけて築いた高山城は天守閣がない御殿造りで、優雅で文化的な側面を持っていました。当時の書物には「天下に五つとない名城」と称えられていますが、現在は城山公園にわずかな石垣が残るのみ。一部の建造物は、由緒ある12の寺社が立ち並ぶ東山寺院群に移築され、現在にその面影を伝えています。
豪華絢爛な屋台にみる精巧な木彫
「金森の文化性を含んだ城・町づくりのおかげで、匠たちの意匠の技術が向上しました。高山祭の屋台に彫刻が付くようになったのは、天保年間(1830-44年)から。それぞれの屋台を管理する組が競って豪華にしようと、職人に彫刻を頼んだのです」。
豪華絢爛な屋台は高山祭屋台会館に4台常設されており、近くでじっくりと見ることができます。頬にちょうど年輪の木目がくる童子や、精巧で美しい龍などに、培われた「飛騨の匠」の技を感じます。
発展と継承。今に伝わる匠の魂
文化的な意匠の技術を高めた匠たち。江戸時代には自然な木目を生かした漆器「飛騨春慶」や、木の色味を生かし、彫刻刀のみで掘り上げる「一位一刀彫」が発展しました。
受け継がれる飛騨の匠の魂は、近代の家具づくりにも継承され、品質と性能の良さで定評です。明治終わりにヨーロッパから伝わった曲木技術の習得に取り組み、もとからあった木の知識、技術が組み合わさって、”飛騨の家具”として確固たる地位を得ました。
魂宿る確かな品質「飛騨の家具」
「50年、100年でももつ、間違いない家具。安価な家具が世に回っても生き残ってきたのは、品質を崩さずに続けてきた匠の魂でしょう。私も含め地元の人がよく行く駅前のやきそば屋『ちとせ』では、50年以上も同じ椅子を使っているそうですよ」。
高山の町並み散策の中で、ふと建物の格子や家具などに目を向けてみれば、古くからつながれてきた飛騨の匠の魂に触れられるかもしれません。
旅のメモ
飛騨の匠の活躍の歴史と、その技を受け継ぎ発展してきた家具をはじめとする作品を展示している「ミュージアム飛騨」に足を運んでみませんか。