上恵土城址
複郭を形成し近世城郭の様相を呈する平城
戦国時代の15世紀末頃に荏土城と呼ばれていた平城で、後に上恵土城と称されるようになりました。
築城年代は定かではありませんが、天正10年(1582)頃の城主長谷川五郎右衛門は大森城主奥村又八郎と謀って、金山城主森長可を攻め滅ぼそうとしますが、逆にその謀議の報告を受けた長可に攻められ、落城したと伝えられています。
また、上恵土城址の主体部は俗称「大屋敷」と呼ばれ、隣接する場所を「小屋敷」と呼んでいました。
縄張り図を確認すると、本城址は単郭の中世居館式ではなくて、小規模ながら複郭を形成して、近世城郭化を目指していたものと推測されます。
土塁と堀の一部がみられましたが、現在は、ほとんど城館の面影をうかがうことはできません。
基本情報
- 住所
- 岐阜県可児郡御嵩町上恵土付近
- 電話番号
- 0574-67-2111