加賀野井城跡
加賀野井城を瞬く間に落とす!
慶長5年(1600年)8月22日、木曽川下流の尾越に向かった福島正則・細川忠興・黒田長政・田中吉政・藤堂高虎らの東軍約16000は、対岸に西軍が柵を設けて待ち構えているため、さらに下流の加賀野井から密かに渡河し、城主不在の加賀野井城を瞬く間に落としました。
加賀野井城跡は、木曽川橋を下った右岸に位置しており天正年間(1573~1592)に加賀野井弥八郎秀望によって構築されたといわれています。
城跡は、もと八町四方もあったと伝えられますが、今は田の道沿いに約50?ほど残るのみです。
弥八郎は、織田信長に仕えていましたが、その死後は子の信雄に仕え一万石を領したといいます。
この場所が、戦国の武将である加賀野井弥八郎の居城であるという確証はありませんが、弥八郎については石田三成の密命をおびて徳川家康を暗殺しようとしたと伝えられています。
弥八郎の墓は、現在は知立市宝町に所在する宝蔵寺本堂裏の雑木林のなかにあります。
また、岐阜市若宮町にある「弥八地蔵」は、弥八郎が黄金一枚で八町四方の土地を買って墓所としたものの後身だといわれています。
基本情報
- 住所
- 岐阜県羽島市中町加賀野井857番地の1
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