大谷吉継の墓・湯淺五助の墓(おおたによしつぐのはか・ゆあさごすけのはか)

三成への友情を貫いた吉継、あえなく自害。

「大谷吉継の墓」は、平塚為広の碑より山道を15分ほど登った場所にあります。その墓はひっそりと吉継の側近「湯淺五助の墓」と一緒に建っています。

石田三成の盟友だった大谷吉継は、病身を押して関ケ原の合戦に参戦し、三成への『義』を貫きます。吉継は藤堂・京極隊や裏切った小早川隊などと激戦を繰り広げましたが、次々と味方の武将も討ち死にし、もはやこれまでと自刃しました。吉継の首は、五助の手によりその地に埋め隠されました。五助はその後討ち入りますが、藤堂仁右衛門に捕らわれました。その時、五助は主人の首の在処を藤堂に正直に伝えて供養を頼んだ上で討たれました。敵ながらに感心した藤堂は、家康からの詰問にも決して吉継の首の所在を口外せず、合戦後、約束通り「大谷吉継の墓」をこの地に建てたとされています。

尚、垂井町ゆかりの「垂井城主・平塚為広」は、大谷吉継隊の前方に布陣し、病身の吉継に代わって大谷隊・平塚隊両軍の指揮していたとされています。


<辞世の句>
平塚為広 
「名のために 捨つる命は惜しからじ 終に留まらぬ浮世と思へば」
(名誉の為に殉じられるなら、自分の命など惜しまない。限られた人生なのだから)

これに対し、大谷吉継は、
「契りあらば 六つの巷に待て暫し おくれ先立つ事はありとも」 
と返歌しました。
(共に死ぬ約束があるのだから六道の分かれ道でしばらく待っていて欲しい。遅れて、あるいは先に死ぬことはあっても)


基本情報

住所
岐阜県不破郡関ケ原町藤下678-2
アクセス
平塚為広碑より山中へ徒歩15分、大谷陣跡より徒歩5分
JR関ヶ原駅から徒歩30分
ウェブサイト

関ケ原観光情報ホームページ(大谷吉継の墓・湯淺五助の墓)

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