奥平貞治の墓
小早川隊の先頭に立ち戦死した勇ましき武将
JR関ヶ原駅から北西へ約4km弱の場所に「奥平貞治の墓」があります。
関ケ原の戦いで貞治は家康の意を受けて、西軍の裏切りを約束していた小早川秀秋隊の監視をしていました。
秀秋の裏切りの後には軍の先頭に立って松尾山を攻め降り、大谷勢と奮戦し、玉村あたりで討ち死にしたと伝えられています。
この墓は元治元年(1864年)10月に子孫の奥平新左衛門源貞昭がこの地に建立し、その後、不破古跡保存会によって墓の横に碑も建てられました。
予想外の戦死だった…!?
奥平貞治は奥三河・亀山城を本拠に持つ有力国人奥平貞勝の子として生まれました。
関ケ原合戦では西軍との激戦に身を挺した結果、戦死してしまいましたが、もともと兵力の高い小早川軍と共に戦った貞治は、まさか自分が戦死するとは思っていなかったことでしょう。
というのも裏切り者の小早川に激怒し、士気が高まった西軍部隊の猛攻が予想以上のものだったのです。
実はこの合戦で命を落とした東軍の武将はほとんどおらず、命を落としてまで戦った奥平家には、のちに家康から多大な恩恵が与えられました。
基本情報
- 住所
- 岐阜県不破郡関ケ原町玉573-2
- アクセス
- JR関ケ原駅から北西へ4km(徒歩で30分)
- ウェブサイト
https://www.sekigahara1600.com/spot/okudairasadaharunohaka.html