細川忠興陣跡
石田隊を果敢に攻める多芸多才な武将
父・幽斎(藤孝)とともに当代一流の文化人として知られ、千利休の高弟である「利休七哲」にも名を連ねました。
豊臣恩顧の武将でしたが、石田三成とは仲が悪く、この関ケ原の合戦では最初から東軍として参戦しました。
というのも、徳川家康が会津征伐のため大坂を留守にした際に、石田三成が妻子らを人質に取ろうとし、これに対して忠興の妻・玉(ガラシャ)は拒絶して命を絶ち、さらには父が守る田辺城は西軍によって包囲されてしまい、三成への増悪の念は深まったとされています。
忠興は約5千の兵を率い、黒田隊とともに石田隊を果敢に攻め、首級130余を挙げたと言われています。
合戦当日は「越中頭形兜」を被っていたとされ、その姿は関ケ原合戦図屏風に描かれています。
基本情報
- 住所
- 岐阜県不破郡関ケ原町大字関ケ原811-104
- アクセス
- 国道21号関ケ原バイパス陣場野交差点を南に1分
JR関ケ原北に徒歩で10分 - ウェブサイト