岐阜の
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- 戦国・城郭
- 野原城趾
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- 岐阜・中濃
- 天正元年(1573年)東濃制覇をめざす苗木遠山氏に攻められ陥落した城の跡。ここからの眺めは一見の価値があります。鉄道ファンにはたまらない撮影スポット。四季折々の景色をバックに、川沿いを走る車両は絶好の被写体になるはずです。
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- 長松城跡
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- 西濃
- 大垣市荒崎小学校付近が、竹中半兵衛の同族 竹中一族ゆかりの城「長松城」の跡と考えられており「長松城址」の標石が立てられています。ここは同城堀のうちの一部であり、古城図を見ると旧長松村の集落全体が、城郭の形を成しています。その城郭を囲むように曲がり角…
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- 上石津郷土資料館
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- 西濃
- 国史跡の西高木家陣屋跡に建つ資料館。上石津で出土した石器、民俗資料、動植物の標本を展示するほか、「島津の退き口」の紹介もしています。
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- 行徳岩 (武儀川)
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- 岐阜・中濃
- 「明智光秀公の母」が懐妊していた時、この岩に立って行水し、「私の生む子が男であったら、仮令三日でもよいから天下を取るような立派な男子を、もし女であったら天下一の美女を御さづけ下さい」と祈ったと伝えられています。
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- 宇喜多秀家陣跡 南天満山
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- 西濃
- 約1万7千という西軍の主力部隊を持ち、副総帥として関ケ原の合戦に参戦した宇喜多秀家。開戦直後に攻め込まれたという史実からも、激しい戦いが繰り広げられた場所だと考えられています。
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- 西首塚
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- 西濃
- 関ケ原一帯を領していた竹中重門は、関ケ原の合戦翌日、戦いによって壊れた神社や戦死者の処理を家康に命じられ、東西2カ所に首塚を造営しました。寛政5(1793)年に西首塚の敷地内に建立された観音堂には、馬頭観音や千手観音が安置されています。
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- 福束城跡 福満寺
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- 西濃
- かつて舟運の拠点だった城跡、福満寺は、寛正元年(1459)に僧盛道の開基の真宗大谷派の寺院で本尊は阿弥陀如来です。福満寺には、旧福束城を記録した「古版木」が残っています。版木の図柄は、中央に福満寺の本堂を画き、左に丸毛兵庫頭の墓、右に鎮守佐々木大神宮、…
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- 安藤守就戦死の地
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- 岐阜・中濃
- 本能寺の変、信長の死後、旧領地を取り戻すため安東(安藤)守就親子は挙兵し北方城を奪い再起を試みたが、新領主の西美濃三人衆のもう一人、稲葉一鉄(良通)に攻められ討死しました。この戦いを北方合戦と言います。(北方城はそのまま廃城となりました。)安藤守就…
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- 稲葉一鉄の墓・月桂院
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- 西濃
- 稲葉一鉄(「頑固一徹」という言葉の語源である説が有力)は、土岐家、斉藤家、織田家、豊臣家に仕えた。美濃国曽根城主。安藤守就、氏家直元と併せて「西美濃三人衆」と称され、特に稲葉一鉄(良通)は、三人衆筆頭とされた。大河ドラマ「麒麟がくる」にも登場。揖斐…
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- 仲深山砦
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- 東濃
- 仲深山砦は、白鷹城(明知城)の南の万ヶ洞を隔てた尾根の先端に立地し、東西2つの曲輪群から構成されています。東側の曲輪は、背後(東端)を二重堀切で画し、北側には帯曲輪が巡り、その東端は、横堀状になり、3本の竪堀を設けています。掘切を隔てた西側の曲輪は…
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- 福島正則陣跡
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- 西濃
- 福島正則は、石田三成と対立して東軍へ加担。開戦後、宇喜多隊に襲いかかり死闘を繰り広げました。現在、陣跡が残る春日神社境内には、関ケ原合戦屏風にも描かれた樹齢800年の「月見の宮・大杉」が、どっしりとそびえ立っています。また、関ケ原合戦時に福島隊の戦…
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- 権現のぞき
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- 西濃
- この辺り(大垣市河間)を「権現のぞき」と呼んでいたと伝えられています。関ケ原の合戦の時、大垣城に居た西軍 石田三成が、東軍の陣地「岡山(勝山)」を望む望楼を立てました。慶長5年(1600年)9月14日、関ケ原の合戦の前哨戦 杭瀬川の戦いにも使われま…
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- 兜塚
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- 西濃
- 野一色助義(通称:野一色頼母(のいっしきたのも))は、近江国の出身で豊臣三中老の一人「中村一氏」公の家老として8千石で仕えた人物です。関ケ原の合戦の時、「中村一氏」は、東軍に属しますが、関ケ原の合戦直前の7月に亡くなったため弟「中村一栄」と共に出陣…
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- 池田輝政陣跡・春王安王墓
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- 西濃
- 岐阜城攻略で二の丸一番乗りを果たした池田輝政は、関ケ原合戦では、南宮山の軍勢に備えて布陣しました。陣跡の石碑は、室町時代の史跡である春王・安王の墓と同じ敷地に建っています。その後、輝政公は、姫路藩初代藩主として姫路城を現在残る姿に大規模に修築します…
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- 於牧の方の墓所
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- 東濃
- 悲運の最期をとげた、於牧の方を偲び、里人の民が建立したとされています。将軍徳川吉宗によって制定された「公事方御定書」の翌年、1743年に建立された石塔には、当時の世評をはばかって「南無阿弥陀如来」とだけ刻まれ、樹齢400年を超える老樹「高野槙」を於牧の方…
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- 明白寺五輪塔
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- 東濃
- 江戸時代に再興された黄檗宗寺院の境内に所在する瑞浪市内最大の五輪塔で、瑞浪市指定文化財です。鎌倉時代末期~南北朝時代の造立とみられ、一説には土岐頼基(土岐明智氏の祖)の墓とされています。
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- 本多忠勝陣跡
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- 西濃
- 「本多忠勝」は、三方ヶ原・長篠の合戦等で数々の功を上げた猛将です。勇猛なだけではなく知略も備えた名将で、関ケ原の合戦では軍監として参戦し、松平・井伊隊が対戦していた島津隊に向かって進撃し共に戦いました。<岐阜関ケ原古戦場記念館 関ケ原メ
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- 十本木立場
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- 岐阜・中濃
- この場所は当時、人夫が杖を立てて籠や荷物をおろし休憩したところから発展し、茶屋などが設けられ、やがて旅人の休憩場所になったといわれる十本木立場があります。『新撰美濃志』には「十本木茶屋は、木曽路通りの休み茶屋なり。数十株の松樹立ちたる故、かく名づく…
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- 池田輝政 鎧かけ松・八剣神社
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- 岐阜・中濃
- 1600年(慶長5年)8月22日、米野の戦い(関ヶ原の合戦の前哨戦の一つ)を終えた池田輝政の軍勢が、岐阜城攻防戦(関ヶ原の合戦の前哨戦の一つ)へと向かう途中に休息をとった場所が八剱神社です。池田輝政が、松に鎧を掛けて休んだことから「鎧かけ松」と言われていま…
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- 合渡川の戦い跡
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- 岐阜・中濃
- 米野の戦いの敗報を聞いた石田三成は、岐阜城の後詰として合渡川(長良川)右岸の河渡に「重臣 舞兵庫(まいひょうご)」を派遣。慶長5年(1600年)8月23日、黒田長政・田中吉政・藤堂高虎ら東軍は、合渡川を渡河して西軍を攻撃、不意をつかれた西軍は敗走し大垣城に…
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