武将名地 ~名将たちの知られざる姿を覗いてみよう~
本当に非情だったのか、それとも慈悲深かったのか。時代の主人公たちの生き様を紐解きながら、知られざる一面に迫ります。
織田信長
織田信長 Oda Nobunaga(1534~1582)
幼少期から奇想天外な行動のせいで「うつけ者」と呼ばれていたが、桶狭間の戦いを期に数々の戦いで勝利を収めて、一躍戦国時代を代表する武将になった。岐阜を拠点に天下統一を目指して上洛すると、敵対する大名らによる信長包囲網に苦しめられたが、比叡山延暦寺の焼き討ちなどの苛烈な手段で危機を脱した。近代的な合理主義の持ち主であり、長篠・設楽原の戦いで鉄砲隊を活用したほか、楽市楽座・兵農分離など画期的な経済施策を実行した。しかし残虐な性格が祟ったのか、1582年、明智光秀の謀反をうけて自害した。
信長は、うつけ者か。
斎藤道三と織田信長が初めて会うときのこと。道三が前もって織田家の一行を盗み見たところ、信長は袴を履かず、荒縄を腰に巻き、茶筅髷を結っただけの荒唐無稽な姿だった。しかしいざ聖徳寺で対面すると、信長は打って変わって見事な格好で現れ、彼の家来までもが「たわけ振りは、偽りの姿だったか」と仰天した。信長のしたたかさに驚いた道三は「自分の子どもは、信長の門外に馬を繋ぐ(家臣となる)ことにだろう」と漏らしたという。
旅のメモ
崇福寺(そうふくじ)
織田家の菩提寺であり、「織田信長父子廟」や鎖かたびら、鎧ひだたれの血痕が付着した「血天井」を見学できる。
斎藤道三
斎藤道三 Saito Dosan(1494~1556)
残忍冷酷・梟雄で知られ、「美濃の蝮」の異名で恐れられた斎藤道三。一介の僧侶だった父長井新左衛門尉が油商人を経て武士の道へ入り、その子道三が戦国大名へ成りあがったことから、下剋上の代名詞とされる。土岐氏の家督争いに乗じて主君を殺害・追放して勢力を伸ばし、美濃国を支配した後は、織田家や朝倉家と一進一退の攻防を続けた。後に信長に娘の帰蝶(濃姫)を嫁がせて和睦している。晩年は息子の義龍へ家督を譲ったが、仲違いの末、1556年の長良川の戦いで討ち死にした。63歳だった。
親子二代で成し遂げた美濃の国盗り。
斎藤道三とその父による美濃の国盗りは、油売りの行商から始まった。道三の父長井新左衛門尉は、「漏斗を使わずに、油を一文銭の穴に通します。油がこぼれたらお代はいただきません」というパフォーマンスで有名な行商人だった。ある日、武士から「その努力を武芸に注げばいいのに」と言われ、一念発起して武士の道へ。武芸を積んで、美濃守護土岐氏小守護代の長井家の家臣になったという。その跡を継いだ道三は、計略を駆使して美濃国の支配に成功した。
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常在寺(じょうざいじ)
道三と父・長井新左衛門尉公が美濃国を制する拠点とした寺。道三・義龍の像や国の重要文化財である掛け軸のレプリカを見学できる。
明智光秀
明智光秀 Akechi Mitsuhide(1528?~82)
前半生に謎が多い明智光秀。元々は足利義昭の家臣だったが、織田信長が足利義昭を立てて上洛した頃から織田家に仕え始めたという。そこからの活躍はめざましく、朝倉攻めでは、浅井長政の裏切りを秀吉と共に乗り切ったほか、比叡山焼き討ちの実行部隊として活躍して、異例のスピード出世を遂げた。故実、典礼に通じた教養豊かな武将で、将軍義昭や寺社・公家との外交面でも活躍した。1582年、本能寺で信長を襲撃したが、その数日後、中国征討から戻った秀吉軍にあえなく敗走。道半ばで土民に殺された。
光秀と煕子の美しい夫婦愛。
結婚前に疱瘡にかかり顔に痘痕が残ってしまった妻木煕子。しかし光秀はそれを気にもとめず、煕子を妻に迎えて仲良く暮らしていた。ある日、光秀が金銭を理由に連歌会の主催を断ろうとした時、煕子は「私が何とかします」と言って、参加者を大いにもてなしたという。会が終わり、頭巾をとった煕子を見て光秀は驚いた。彼女の美しい黒髪がすっぱりと切られていたからだ。煕子に心から感謝した光秀は、その後、煕子生存中は側室を持たなかったという。
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明智城跡
標高175mの高台に築かれた歴史ある城だったが、1556年に斎藤義龍の襲撃により落城。明智光秀生誕の地のひとつとされる。
金森長近
金森長近 Kanamori Nagachika(1524~1608)
織田信長に仕え、桶狭間の戦いや美濃攻略などで活躍し、赤母衣衆に数えられた金森長近。長篠・設楽原の戦いで鳶ヶ巣山砦を落としたほか、越前の一向一揆の平定や甲州征討で飛驒口の大将を務めるなど、信長の天下統一を力強く支えた。信長亡き後、秀吉の下で数々の手柄を立てて飛驒一国を手にした長近は、天神山に高山城を築城したが、関ケ原の戦いで上有知ほか2万3000石を与えられてからは、養嗣子の可重に高山城を譲り渡し、自身は小倉山城に隠居した。金森氏は高山に107年間、6代にわたって繁栄した。
蛤石(はまぐりいし)の奇妙な伝説
かつて飛驒に蛤石と呼ばれる雌雄2体の奇石があった。蛤石は、夜ふけに白気やうなり声を発して人々に恐れられた。しばらくしてこの地に高山城を築いた金森長近が噂を聞きつけ、人夫に城まで運ばせたところ、その道中で石が重くなり終いには動かせなくなったという。さらにブーンブーンとうなり声をあげたため、長近は元の場所に戻すよう命じたとか。なんとも不思議な蛤石の1体は、古川城跡に現存している。
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高山陣屋跡
金森長近の下屋敷跡であり、江戸時代に郡代らが治政を行なった陣屋跡。陣屋前の広場で開催される朝市には、多くの店や人が賑わう。
古田織部
美濃の国衆・古田重定の子として岐阜県本巣に生まれた。武士でありながら茶の湯や連歌に秀でており、信長の死後は太閤豊臣秀吉の御伽衆となる。天下の茶人千利休に師事し、彼亡き後は後継者として秀吉の茶頭役になった。利休の静的な茶とは異なり、武家好みの大胆かつ自由な織部の流派は「織部好」と呼ばれ、爆発的な流行をみせたという。特に有名な織部焼は「破調の美」と評され、常識に囚われず、割れ、ゆがみ、ひずみなどに美しさを見出している。徳川家の指南役も務めたが、豊臣方との内通疑惑で切腹した。
茶杓に適した竹を求めて。
徳川家康と豊臣家との最終戦争「大坂夏の陣」の最中に、弟子の佐竹義宣を見舞った織部。その際、茶杓に適した竹を探すのに夢中になり、合戦中にも関わらず危険な竹林へ入ってしまったという。案の定敵に狙撃されるも幸い弾は外れ、「やはりこれからは、どこへ行くにも兜が必要らしい」と一言呟いたとか。夢中になると他のことを忘れてしまう織部の人柄がよくわかるエピソードである。
旅のメモ
セラミックパークMINO
織部十作に代表されるように、奥の深い美濃焼を体験・購入できるスポット。焼物好きもそうでない人も楽しめる施設となっている。
竹中半兵衛
知略に優れた武将であり、豊臣秀吉の軍師として名を馳せた竹中半兵衛。美濃出身だったため斎藤氏に仕えていたが、主君 斎藤龍興の寵臣政治に堪りかねて、稲葉山城の乗っ取り事件を引き起こした。難攻不落で有名な城を一晩で攻略したため一躍有名になったという。数ヶ月後に城を返還したものの、斎藤家を去って織田信長に仕えることに。その後は秀吉の参謀として、寝返り工作や戦場指揮で活躍し、中国征伐では多くの戦果を収めたが、播磨三木城の攻略中に陣中で病没した。36歳という若さであった。
旅のメモ
GURUMAN VITAL (グルマン・ヴィタル)
官兵衛の故郷 姫路市の「甘音屋」と半兵衛ゆかりの地 垂井町の「グルマン」がコラボした絆のあんぱん『二兵衛』を食べることができる。
森蘭丸
森蘭丸(森乱丸)Mori Ranmaru(1565~1582)
信長が寵愛した小姓として広く知られる森蘭丸。15歳で小姓となった蘭丸は機知に富んだ少年で、徹底して信長の顔を立てて、まもなく信長のお気に入りになったという。彼がただの小姓ではなかったのは、一度も戦いに参加せずに美濃岩村城5万石を手にして、17歳で城主になったことからも想像に難くない。しかし1582年、本能寺の変で信長を守りながら、明智光秀の家臣である安田国継に討たれ、わずか18歳で討ち死にしてしまった。
※画像は、森蘭丸産湯の井戸
気の利く小姓 森蘭丸。
信長のお気に入り第1位は奥州の鷹、2位は青の鳥、3位は森蘭丸と言われるほど寵愛されていた森蘭丸。それは彼がとにかく気が利いたからだという。あるとき信長から開いていない障子を閉めるように頼まれた蘭丸は、信長の面子を保つために大きな音で障子を閉めなおしたという。また信長が両手の切った爪を扇子に乗せて捨てるよう頼んだ際、蘭丸は爪が9つしかないことに気づき、残りの爪を必死に探したとか。信長から愛されるのも納得である。
旅のメモ
美濃金山城跡(みのかねやまじょう)
城跡の中腹には「蘭丸ふる里の森」があるほか、ここから山頂の城に汲み上げたという「乱丸産湯の井戸」を見ることができる。
森可成
森可成 Mori Yoshinari(1523~1570)
「槍の三左」と呼ばれた槍の名手。元々は美濃守護の土岐氏に仕えていたが、土岐氏が斎藤道三に追放された後は信長に仕え、尾張国統一に大きく貢献した。清洲城攻め、桶狭間の戦い、姉川の戦いなどに従軍して数々の戦功をあげ、やがて美濃国の金山城を治めるようになる。信長の上洛に伴って現在の滋賀県大津市に宇佐山城を築いたが、約3万の兵を率いた浅井・朝倉両家から攻撃を受け、約1000人の兵とともに善戦するも討死。しかし奮戦のおかげで宇佐山城は落城は免れたという。
※画像は、国立国会図書館ウェブサイトから転載
関の兼定「十文字槍」。
森可成が愛用した武器に、関の兼定の「十文字槍」がある。その十文字槍が生み出された岐阜県関市は、長良川の清らかな水、炉に使う松炭、良質な赤土に恵まれていたため、いつしか多くの刀匠が集まり、関の刀は「折れず、曲がらず、よく切れる」と評判になったという。有名な刀匠に関の兼元・兼定・兼房などがおり、特に「関孫六」で知られる兼元は「四方詰め」という独特の鍛刀法で、関の名前を一躍有名にした。
旅のメモ
可児市観光交流館
本陣をイメージした館内では、陣幕や甲冑、槍・弓などを見学できるほか、甲冑を着て美濃金山城跡まで行ける「イクササイズ」を楽しめる。【要予約】