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- 大垣市
- 瑠璃光禅寺 <島津の退き口ゆかりの地>
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- 西濃
- 瑠璃光禅寺(瑠璃光寺)本堂には、島津豊久公の位牌がおさめられているほか、ゆかりの梵鐘もあります。この寺の裏手の森の中には、島津塚と呼ばれる豊久公の五輪塔が祀られています。関ケ原の合戦、伊勢街道から薩摩への道は、まだまだ続く!! ※島津豊久公自害…
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- 水の都おおがきたらい舟
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- 西濃
- 水の都と呼ばれ、水が美しく豊かな大垣。街の中心を流れる水門川を楕円形のたらい舟に乗って下ります。このたらい舟川下りは、関ケ原合戦の際に、石田三成に仕えた山田去歴の娘「おあん」が、たらいに乗って、落城する大垣城から抜け出したという戦国秘話に基づきます…
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- 墨俣 犀川堤
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- 西濃
- 1.2kmにわたるあじさい街道を体感してみませんか?岐阜県大垣市墨俣地区にある犀川堤。 地域の皆さんの手で植えられた約3800本のあじさいが6月になると一斉に花開きます。 数々の種類からなる色のグラデーションがとても幻想的です。 春は桜トン…
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- 加賀野八幡神社井戸
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- 西濃
- JR大垣駅から北東へ2キロほどのところにある人気の湧水スポット加賀野八幡神社井戸。「水の都」大垣市を象徴する、豊富な水量を誇る自噴井戸。こんこんと湧き出る自噴水は、その光景と水質の良さ、おいしさから週末には水を汲む人々で賑わいます。環境省が選定した…
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- 赤坂宿本陣跡・本陣公園
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- 西濃
- 江戸時代、大名・貴族の旅館として設置された中山道赤坂宿の本陣。間口24間4尺、邸の敷地は2反6畝26歩、建物の坪数は、およそ239坪もあり、玄関・門構えの豪勢なものでした。文久元年10月25日、皇女和宮がここに泊したことは有名です 。(皇女和宮ゆかりの地)
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- 姫螢
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- 西濃
- 金生山明星輪寺周辺に生息するヒメボタルは、体長5~10mmの陸生のホタル。光が尾を引くゲンジボタルなどと違い、細かく点滅発光するのが特徴です。点滅は、6月中旬〜下旬の深夜0時~2時ごろ。幻想的な光の競演をお楽しみください。
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- 上石津郷土資料館
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- 西濃
- 国史跡の西高木家陣屋跡に建つ資料館。上石津で出土した石器、民俗資料、動植物の標本を展示するほか、「島津の退き口」の紹介もしています。
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- 曽根城跡
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- 西濃
- 西美濃三人衆の稲葉一鉄(いなばいってつ)も城主を務めた曽根城は、関ケ原の合戦当時は西尾光教(にしおみつのり)が城主。光教が東軍に与したため、石田三成は近隣諸将に打ち壊しを命じます。その後、東軍が赤坂に進出すると、松平康長・水野勝成らが入城し、大垣城…
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- 島津塚 <島津の退き口ゆかりの地>
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- 西濃
- 関ケ原の合戦の撤退戦「島津の退き口」で殿軍を務め、叔父 島津義弘の身代わりとなりこの地で討死した島津豊久公の墓所です。瑠璃光禅寺西の森(カンリンヤブ)の中に、島津塚(薩摩塚)と呼ばれる島津豊久公の五輪塔が祀られています。上多良公民館の向かい側にあり…
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- 白拍子谷 <島津の退き口ゆかりの地>
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- 西濃
- 烏頭坂で重傷を負った島津豊久公を、家臣・川口運右衛門の意を受けた三輪内助入道一斉がこの地に案内したが、豊久公は自刃して果てた。白拍子谷は、伊勢街道(伊勢西街道)を入った名及集落の南を流れる堂木川の対岸にあり、小さな標柱が立つのみで、辺り一帯はひっそ…
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- (株)三輪酒造
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- 西濃
- 天保八年(1837年)創業。関ケ原の戦いで陣が構えられた大垣城を囲む十か町の一つ、船町にある造り酒屋で、水都大垣の豊富で良質な湧水を使って酒を醸し続けています。幕末は大垣藩御用達の蔵として繁栄し、大垣の偉人の一人、大垣藩重鎮・小原鉄心の“鉄心&…
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- 美濃路 墨俣宿本陣跡
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- 西濃
- この墨俣宿本陣跡には、本陣の由来を示す石碑と渡船場常夜燈があるだけです。慶長5年、伊達政宗が宿泊したこともあり「伊達様御本陣」とも言われていました。本陣は、代々澤井家が務めていました。
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- 美濃路 墨俣宿脇本陣
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- 西濃
- 美濃路墨俣宿にあった脇本陣跡に建つ民家です。脇本陣は明治24年(1891年)の濃尾震災の際に倒壊し、現在は隣接する本正寺に山門が残るのみです。その後、再建されたこの建物は、脇本陣時代の構造を色濃く残しており、当時の宿場町の面影を偲ぶことができます。週末には…
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- 鮎料理専門店 十六兆
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- 西濃
- 岐阜県産、長良川流域の種鮎を用い、大垣の地下水で育て上げた鮎は品質・衛生面ともに上質なものとなります。店主自ら育て上げた鮎を使用した鮎専門店「十六兆」を26年前より立ち上げ、「天然よりも美味い鮎」をコンセプトに一品一品妥協のない料理を提供しております…
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- 源平墨俣川古戦場 義円公園
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- 西濃
- 平安時代末期の養和元年(1181年)2月4日、「平清盛」病死。東国源氏は、勢を得て京へ攻め上ります。3月10日、源氏を迎え討つため、平家は「平重衡」を総大将として、杭瀬川(岐阜県大垣市)を渡り右岸の墨俣側(上下宿)に陣しました。一方、源氏の将「行家」(新宮…
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- 美濃路
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- 西濃
- 美濃路は、東海道宮宿(現愛知県名古屋市熱田区)と中山道垂井宿(現岐阜県不破郡垂井町)を結ぶ全長約58キロに及ぶ街道でした。中山道の木曽谷、東海道の鈴鹿峠や七里の渡しといった難所を避けることができました。そのため、参勤交代で国許を行き交う諸大名だけでな…
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- 兜塚
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- 西濃
- 野一色助義(通称:野一色頼母(のいっしきたのも))は、近江国の出身で豊臣三中老の一人「中村一氏」公の家老として8千石で仕えた人物です。関ケ原の合戦の時、「中村一氏」は、東軍に属しますが、関ケ原の合戦直前の7月に亡くなったため弟「中村一栄」と共に出陣…
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- 長寿院盛淳の墓・琳光寺
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- 西濃
- 島津義弘公の家老・長寿院盛淳は、島津豊久公に次いで捨て奸(すてがまり)を行い、義弘公から賜った陣羽織を身につけ、「我こそは義弘也」と名乗り、主君の身代わりとなって討ち死にしました。琳光寺には、盛淳公を悼んで宝暦治水の薩摩藩士が刻んだ五輪塔と、子孫が…
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- 樫原城跡 津島神社
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- 西濃
- 樫原城跡は、令和2年1月の調査で「戦国時代後半の山城」と確認されました。地域に伝わる古い記録には、「永禄のころ、秀吉の長島攻めのとき、樫原に陣を置いた。永禄の頃、三輪三人衆の一人、佐渡が樫原に住んだ。」と書かれています。「明智氏一族宮城家相伝図書」(…
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- 長松城跡
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- 西濃
- 大垣市荒崎小学校付近が、竹中半兵衛の同族 竹中一族ゆかりの城「長松城」の跡と考えられており「長松城址」の標石が立てられています。ここは同城堀のうちの一部であり、古城図を見ると旧長松村の集落全体が、城郭の形を成しています。その城郭を囲むように曲がり角…
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