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- 権現のぞき
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- 西濃
- この辺り(大垣市河間)を「権現のぞき」と呼んでいたと伝えられています。関ケ原の合戦の時、大垣城に居た西軍 石田三成が、東軍の陣地「岡山(勝山)」を望む望楼を立てました。慶長5年(1600年)9月14日、関ケ原の合戦の前哨戦 杭瀬川の戦いにも使われま…
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- 吉川広家陣跡
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- 西濃
- 毛利軍(毛利秀元)の西軍参加に一族最年長として反対し続け、家康と密かに通じた上で南宮山に布陣する。
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- 素玄寺
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- 飛騨
- 1609年、初代高山城主であった金森長近(かなもりながちか)の菩提寺として、二代目 金森可重(かなもりありしげ)が建立したもの。長近の法号にちなんで素玄寺となりました。敷地内に飛騨郡代の大原彦四郎の墓や、金森家供養塔があります。
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- 四国堀跡
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- 岐阜・中濃
- 大桑城下の谷筋をふさぎ止めるように造られた空堀と土塁の後があります。堀の深さ5m、幅約8mで、土塁の長さは約100mにわたって残っています。尾張、伊勢、越前、近江の4つの国の加勢を受けて築いたと伝えられています。明智光
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- 上石津郷土資料館
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- 西濃
- 国史跡の西高木家陣屋跡に建つ資料館。上石津で出土した石器、民俗資料、動植物の標本を展示するほか、「島津の退き口」の紹介もしています。
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- 平塚為広碑
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- 西濃
- 関ケ原の隣、岐阜県垂井町(一万二千石)を治めていた平塚為広は、関ケ原の合戦時、いち早くこの地へ入り、西軍として参戦します。病身を押して戦った大谷吉継と盟友関係だったこともあり、吉継に代わって大谷隊と平塚隊の両軍を指揮していたとも伝えられています。<…
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- 承久の乱 大井戸の渡し跡・土田の渡し
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- 岐阜・中濃
- 鎌倉時代 承久3年(1221年)6月5日、日本史上初の朝廷と武家の間で起きた武力による争い「承久の乱」の開戦地。激戦地となった大井戸の戦いです。この地では、朝廷側(大内惟信)2000騎と幕府側(武田信光・笠原長清ら)東山道軍50,000余軍に東海道軍100,000余軍が…
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- 美濃路
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- 西濃
- 美濃路は、東海道宮宿(現愛知県名古屋市熱田区)と中山道垂井宿(現岐阜県不破郡垂井町)を結ぶ全長約58キロに及ぶ街道でした。中山道の木曽谷、東海道の鈴鹿峠や七里の渡しといった難所を避けることができました。そのため、参勤交代で国許を行き交う諸大名だけでな…
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- ふるさと体験飛騨高山
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- 飛騨
- ふるさと体験飛騨高山では、田植え・野菜の収穫などの「農業体験」、川遊び・魚つかみなどの「自然体験」、パン作りやせんべい焼などの「食文化体験」、源流探索や川の生き物調査などの「環境活動体験」、雪上クルージングなどの「冬の体験」など、高山市内各地域の特…
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- 美濃路 墨俣宿本陣跡
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- 西濃
- この墨俣宿本陣跡には、本陣の由来を示す石碑と渡船場常夜燈があるだけです。慶長5年、伊達政宗が宿泊したこともあり「伊達様御本陣」とも言われていました。本陣は、代々澤井家が務めていました。
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- 美濃路 尾越の渡し
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- 岐阜・中濃
- ☆「美濃路」は、中山道の垂井宿から、東海道の宮宿(名古屋市熱田)までの約57.5kmの街道。徳川家康が、関ヶ原合戦後に凱旋の帰路としてこの路を通ったことから、「吉例街道(きちれいかいどう)」とも呼ばれ交通量も多く重要な脇街道です。
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- 長松城跡
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- 西濃
- 大垣市荒崎小学校付近が、竹中半兵衛の同族 竹中一族ゆかりの城「長松城」の跡と考えられており「長松城址」の標石が立てられています。ここは同城堀のうちの一部であり、古城図を見ると旧長松村の集落全体が、城郭の形を成しています。その城郭を囲むように曲がり角…
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- 伊久良河宮跡(いくらがわのみや)
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- 岐阜・中濃
- 全国神社の本宗である伊勢神宮は、皇位の御しるしの八咫(やた)の鏡をご神体とし、皇祖天照大神をお祀りしている皇大神宮(内宮)が信仰の中心となっています。垂仁天皇の時代、皇女倭姫命(やまとひめのみこと)は、天照大神をお祀りするのに最もふさわしい地を求め…
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- 開元院
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- 東濃
- 土岐頼元が創建したと伝わる曹洞宗寺院。本尊は、観音菩薩で土岐市の定林寺の本尊を移したと伝わっています。この本尊は、岐阜県の重要文化財となっています。
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- 興徳寺
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- 東濃
- 小里氏の菩提寺として創建された臨済宗寺院。岐阜県重要文化財である「源頼幸」の墨書名を有する菅公像(菅原道真像)を所蔵しています。
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- 名木林神社
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- 西濃
- 祭神は、天照大神。美濃神名帳に記録にある古い神社で天徳年間(957年)「ナキハヤ」と呼ばれていた模様。
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- 細川忠興陣跡
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- 西濃
- 当代一流の文化人として知られ、千利休の高弟である「利休七哲」にも名を連ねました。豊臣恩顧の武将でしたが、石田三成とは仲が悪くこの関ケ原の合戦では最初から東軍として参戦。黒田隊とともに石田隊を果敢に攻め、首級130余を挙げたと言われています。
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- 奥平貞治の墓・碑
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- 西濃
- 家康の意を受けて西軍裏切りを約束していた小早川隊の監視をしていた奥平貞治。小早川裏切りの後、軍の先頭に立ち松尾山を攻め降りました。大谷勢との激戦に身を挺した結果、討ち死にします。奥平の様に、東軍で命を落とした武将は数少ないと言われています。この墓は…
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- 北塚
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- 西濃
- 輪之内町東大藪の北部、大藪地内の田んぼの中に、一畝ほど小高く土を盛り上げた塚(現在は史跡として整備しています)。関ケ原の合戦の最初の前哨戦「福束城の戦い」において戦死した東西両軍の死者をあわれんで土地の人たちが埋葬して成仏を祈った塚。お堂の仏様には…
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- 旧森川訓行家住宅(丸森)
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- 東濃
- 旧森川訓行家住宅は、中山道大湫宿の北部に位置し、一族の中でも各々を区別するために「丸森」と呼ばれ、旅籠屋の他に尾州藩の許可を得て塩の専売も行い、繁盛を極めたとされています。建物は江戸時代末期の建築と推察され、江戸の町屋形式をそのまま有し、当時の旅籠…
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