岐阜の
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- ぎふ里山景観研究所
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- 岐阜・中濃
- "山県市を中心とした里山の資源を生かして、「交流人口の拡大」「農業の活性化」「地域との連携」「環境教育」「地域ブランドの認知度向上」などにより、里山に新たな価値を生み出し、里山景観を持続的に維持していくことを目指して、次のような事業を行います。…
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- 東首塚
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- 西濃
- 関ケ原の合戦翌日、勝者となった徳川家康は、戦いで破壊された神社の修復や、首実検に供されたり、戦場に残された夥しい戦死者の処理を竹中重門(しげかど)に命じました。重門は、遺体を埋葬し、東西2カ所に首塚を造営。朱色の門を抜けた敷地内には、スタジイの古木…
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- 木村邸
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- 東濃
- 木村家は江戸時代中期から末期に栄えた岩村城下町の本通り沿いに建つ重厚な町家造りの旧問屋です。藩の財政困窮のたびに御用金を調達してその危機を救いました。それゆえ、藩主より特別な存在として認められ、藩主自身が幾度となくこの木村邸を訪れたといわれています…
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- 山内嘉助屋敷跡
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- 岐阜・中濃
- 江戸時代に酒造業を営んだ山内家の屋敷跡。今は藤上坂の途中に立派な石垣のみが往時の姿を伝えています。当時、この屋敷は「中山道」を通行する諸大名の休憩所や旅人の宿泊施設としての役割も担っていたと伝えられています。
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- 牛の鼻欠け坂
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- 岐阜・中濃
- 「牛んぼ牛んぼどこで鼻欠いた、西洞の坂で鼻欠いた♪」という歌が残るこの坂は、牛や馬など四足歩行の動物が通る際、鼻が地面に接してしまうことで擦れたり、削れたりしてしまうほど急な坂道であったことから名付けられました。平成28年からは国の史跡にも指定されて…
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- 顔戸城址
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- 岐阜・中濃
- 大河ドラマ「麒麟がくる」で注目を集める可児市北東部から御嵩町西部にかけて存在したとされる明智荘は、古来「明智八郷」と言われており、現在の御嵩町の古屋敷・顔戸、可児市の柿田・渕之上・平貝戸・瀬田・石森・石井の8つの集落を指します。この明智荘には、美濃…
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- 武田耕雲斎歌碑
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- 岐阜・中濃
- 「青天を衝け」に登場した幕末の水戸藩士、武田耕雲斎(1803~65年)の灯籠型歌碑が、太田宿中仙道会館北、旧太田宿本陣(本陣庭園)内に移設され公開されています。「天狗党」の総大将を務めていた武田耕雲斎が、旧中山道を通るおり、お世話になった当時太田代官所を…
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- 連理の榊
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- 西濃
- 国の天然記念物指定を受けたサカキで、推定樹齢300~400年の大木。根本は二幹に分かれていますが、枝が絡み合って一体になっていることから、連理の榊とわれています。関ヶ原合戦時には西軍の長宗我部盛親がこの辺りに陣を張りました。
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- 津屋城跡
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- 西濃
- 慶長5年(1600年)8月19日、西軍 高木正家の津屋城は、敗走する高須城兵を追撃した東軍により落城しました。津屋城跡には3年後、高須城主 徳永寿昌の許しを得て本慶寺が移されました。
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- 兜塚
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- 西濃
- 野一色助義(通称:野一色頼母(のいっしきたのも))は、近江国の出身で豊臣三中老の一人「中村一氏」公の家老として8千石で仕えた人物です。関ケ原の合戦の時、「中村一氏」は、東軍に属しますが、関ケ原の合戦直前の7月に亡くなったため弟「中村一栄」と共に出陣…
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- 大正路地
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- 東濃
- この路地は、2代目町長・濃明銀行創始者 故橋本幸八郎氏宅の年貢米を納めた米蔵と江戸時代から続いた呉服問屋の蔵にはさまれ、大正時代のたたずまいを色濃く残しています。蔵の白と黒のコントラストがあざやかです。黒い羽目板は、桟(さん)をはずすと防火壁の役目…
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- 安国寺恵瓊陣跡
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- 西濃
- 安国寺恵瓊は、毛利輝元公を西軍の大将にまつりあげることに成功する。関ケ原の合戦では、西軍として南宮山に布陣。吉川広家等の裏切りにより傍観軍になる。合戦後、石田光成公らとともに京都六条河原で斬首されました。
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- 池田輝政陣跡・春王安王墓
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- 西濃
- 岐阜城攻略で二の丸一番乗りを果たした池田輝政は、関ケ原合戦では、南宮山の軍勢に備えて布陣しました。陣跡の石碑は、室町時代の史跡である春王・安王の墓と同じ敷地に建っています。その後、輝政公は、姫路藩初代藩主として姫路城を現在残る姿に大規模に修築します…
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- 稲葉一鉄の墓・月桂院
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- 西濃
- 稲葉一鉄(「頑固一徹」という言葉の語源である説が有力)は、土岐家、斉藤家、織田家、豊臣家に仕えた。美濃国曽根城主。安藤守就、氏家直元と併せて「西美濃三人衆」と称され、特に稲葉一鉄(良通)は、三人衆筆頭とされた。大河ドラマ「麒麟がくる」にも登場。揖斐…
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- 土岐頼貞の墓
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- 東濃
- 南北朝時代に美濃国守護となった土岐頼貞とその一族の墓です。この辺りは、江戸時代には中島村と呼ばれ興禅寺(光善寺)跡とも言われています。墓所は道路によって東西に分断され、東側は五輪塔10基、西側には五輪塔5基と宝篋印塔4基があります。頼貞の墓には「暦二年…
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- 伊富神社
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- 西濃
- 美濃に多く分布したといわれる伊富部氏の祖神。
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- 十本木立場
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- 岐阜・中濃
- この場所は当時、人夫が杖を立てて籠や荷物をおろし休憩したところから発展し、茶屋などが設けられ、やがて旅人の休憩場所になったといわれる十本木立場があります。『新撰美濃志』には「十本木茶屋は、木曽路通りの休み茶屋なり。数十株の松樹立ちたる故、かく名づく…
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- 唄清水
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- 岐阜・中濃
- この清水の傍らには「馬子唄の響きに波たつ清水かな五歩」と刻まれた嘉永七年(1854)の句碑が建っています。五歩とは千村征重のことで、久々利九人衆の一人・千村助右衛門重次の分家にあたり、日吉(現瑞浪市)の南垣外に住んでいました。現在、唄清水は岐阜県の名水…
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- 新加納陣屋
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- 岐阜・中濃
- 慶長五年(1600)八月、関ヶ原の戦いの前哨戦である岐阜城の戦いの前に、木曽川を渡って岐阜城の攻略を目指していた東軍の池田輝政と、新加納において待ち構えていた西軍の岐阜城主織田秀信の軍勢との戦いがありました。新加納には西軍によって砦が築かれており、秀信…
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- 飛騨みやがわ考古民俗館
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- 飛騨
- 飛騨市宮川町内で発掘された県指定文化財の考古資料と宮川町周辺から収集された国指定有形民俗文化財を収集展示しています。近年まで使われていた民具。長い眠りから覚めた縄文時代の遺物。ここでは、山里に生きた人々の暮らしぶりを感じることができます。有人での開…
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