岐阜の
スポット・体験を探す
- 現在の検索条件
- 歴史を知る
- 池田恒興・元助父子の墓
-
- 西濃
- 織田信長の乳兄弟であった池田恒興は、信長の死後大垣城主となった武将。清須会議四宿老のひとりとしても著名です。子の輝政は父の後を継ぎ、大垣城主を経て、後に姫路城主となりますが、父子は長久手の合戦で戦死し、池田町に葬られました。池田のお茶は、そんな池田…
- more
- 落合砦(千畳敷公園)
-
- 東濃
- 明知城が宝治元年(1247年)に築城されたころ、この千畳敷台地に落合砦を築いたと伝えられています。伝承によれば、明智光秀公はこの砦で生まれ、産湯として使ったとされる井戸が残されています。
- more
- 太田宿中山道会館
-
- 岐阜・中濃
- 今もなお宿場町の面影が強く残る太田宿。中山道六十九次の51番目の宿場にあたる太田宿は、中山道の三大難所の1つ「太田の渡し」で知られています。太田宿中山道会館では、宿場町の歴史・文化を学ぶことができます。地元の食材を使ったメニューが自慢のレストラン「…
- more
- 関ケ原古戦場 開戦地
-
- 西濃
- 西軍は、笹尾山に「石田三成」、松尾山に「小早川秀秋」という鶴翼の陣を形成。東軍は、関ケ原盆地中央で「福島正則」を先方とした魚鱗の陣を形成。9月15日 「松平忠吉・井伊直政」が宇喜多隊に発砲したことを機に天下分け目の戦いが始まりました。
- more
- 西首塚
-
- 西濃
- 関ケ原一帯を領していた竹中重門は、関ケ原の合戦翌日、戦いによって壊れた神社や戦死者の処理を家康に命じられ、東西2カ所に首塚を造営しました。寛政5(1793)年に西首塚の敷地内に建立された観音堂には、馬頭観音や千手観音が安置されています。
- more
- 御嵩城址
-
- 岐阜・中濃
- 御嵩城には、権現山城と本陣山城の2つの城があり、築城年代は不詳ですが、小栗信濃守という武将の居城だったといわれています。伝承によれば、金山城主森長可は権現山城に大軍をもってたびたび攻め込みましたが、権現様のお使いの白い大蛇が霧を出して阻み、攻略でき…
- more
- 美濃歌舞伎博物館「相生座」
-
- 東濃
- 相生座は、旧恵那郡明智町にあった常盤座と、旧益田郡下呂町にあった相生座の舞台や客席などを組み合わせ、昭和51(1976)年に日吉町に移築再現。両花道・回り舞台等を備え、客席は平土間で左右と後方の二階に桟敷が設けられた本格的な舞台機構を完備した芝居小屋です。…
- more
- 野古墳群
-
- 西濃
- 大野町に点在する200基を超える古墳の中でも5世紀後半から6世紀初頭(今からおよそ1500年前)にかけて造営された野集落西方にある古墳群。この時代にこれだけの規模の古墳が密集して造営されることは稀なため、国の史跡に指定されています。古墳群成立当時は、もっと…
- more
- すわがね(鶴岡山)
-
- 東濃
- 「すわがね」は、鶴岡山の山頂732メートルに位置し、かつて織田信長軍の諏訪ヶ峯陣城があった場所です。空気が澄んだ日には、山頂から愛知県吉良の海が見えることから、明智町吉良見地区の語源にもなっています。近年は人が近寄らず荒れ果ててしまっていましたが、地…
- more
- 乱闘橋の戦い跡 乱闘橋供養塔
-
- 岐阜・中濃
- 慶長5年(1600年)8月、西軍・織田秀信(織田信長の嫡孫・三法師)と東軍・池田輝政が戦い、橋は乱闘橋と呼ばれるようになりました。現在、このあたりにあった乱闘橋はありませんが乱闘橋供養塔があります。乱闘橋があった境川は、1185年の大洪水で流れが変わる前は木…
- more
- 禅幢寺
-
- 西濃
- 永禄元年(1558)竹中氏が6000貫の領主となり、竹中半兵衛は、父重元と共に菩提山に城を築きました。天正7年(1579)播州三木(現在の兵庫県三木市)の陣において行年36歳の若さで病没した半兵衛の菩提を弔うために、その子重門がこのお寺に墓を移しました。お寺の背…
- more
- 中山道 細久手宿
-
- 東濃
- 細久手(ほそくて)宿は江戸から48番目の宿で、大湫(おおくて)宿と同じく歌川広重の「木曽街道六十九次」に描かれています。東隣の大湫宿と西隣の御嶽宿の間が4里半と長く、旅人が難渋したために仮宿を設けたのがはじまりです。宿場内には尾州家定本陣であり今でも料…
- more
- 増島城跡(岐阜県指定史跡)
-
- 飛騨
- 増島城は、金森長近が飛騨国支配における古川盆地の押さえとして築いた平城です。高山藩2代目藩主・金森可重が初代藩主を務めました。 現在は、古川小学校と飛騨市特別支援学校の間に、櫓台の石垣と堀の一部が残っています。櫓台の上には、増島天満神社(気多若宮神…
- more
- 曽根城跡
-
- 西濃
- 西美濃三人衆の稲葉一鉄(いなばいってつ)も城主を務めた曽根城は、関ケ原の合戦当時は西尾光教(にしおみつのり)が城主。光教が東軍に与したため、石田三成は近隣諸将に打ち壊しを命じます。その後、東軍が赤坂に進出すると、松平康長・水野勝成らが入城し、大垣城…
- more
- タルイピアセンター・歴史民俗資料館
-
- 西濃
- 竹中半兵衛の生涯、中山道と美濃路の追分として賑わった垂井宿などを紹介している。また、古墳の石室を再現しているコーナーもある。
- more
- 龍護寺
-
- 東濃
- 明智光秀公供養塔 明知遠山家の菩提寺である龍護寺に、明智光秀公の供養塔があります。 光秀公に関する碑は、「その悲痛な思いで」ことごとく割れるといった通説どおり、斜めに大きくひび割れが入っています。 毎年5月3日には、光秀まつりとあわせて、明智光秀公…
- more
- 国史跡 美濃国府跡
-
- 西濃
- 大化改新(645年)によって、全国に国府がつくられ美濃国では府中地区一帯にあったといわれています。7世紀の終わりから8世紀初めにかけて、大和朝廷は律令政治の完成をめざしていました。全国を国と郡に分け。それぞれに国府(こくふ)、郡衙(ぐんが)などの役所…
- more
- 赤坂港跡
-
- 西濃
- 川を交通の手段としていた1900年初期ごろ、川港の赤坂港には、500艘を超える船が往来したと言われています。この地域は、古くから石灰や大理石産業が盛んで、産業の町としてにぎわいを見せていました。赤坂港会館は、明治8年赤坂の四辻にあった屯所(警察署)を復元し…
- more
- 島津塚 <島津の退き口ゆかりの地>
-
- 西濃
- 関ケ原の合戦の撤退戦「島津の退き口」で殿軍を務め、叔父 島津義弘の身代わりとなりこの地で討死した島津豊久公の墓所です。瑠璃光禅寺西の森(カンリンヤブ)の中に、島津塚(薩摩塚)と呼ばれる島津豊久公の五輪塔が祀られています。上多良公民館の向かい側にあり…
- more
- 垂井城跡
-
- 西濃
- 垂井城主の平塚為広公は、大谷吉継の配下として関ケ原の合戦に西軍として参戦する。関ケ原の合戦 大谷吉継に代わって活躍するが、力尽きる「垂井の泉」と「大ケヤキ」が隣接してあります。専精寺に石碑はありますが、推定地であり城跡は確認されておいりません。
- more