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- 中山道と美濃路 垂井追分道標
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- 西濃
- 宝永6(1709)年に建てられた追分の道標は、「中山道」と「美濃路」の大切な分岐点。中山道250余りの道標中、七番目に古いものです。☆「美濃路」は、中山道の垂井宿から、東海道の宮宿(名古屋市熱田)までの約57.5kmの街道。徳川家康が、関ヶ原合戦後に凱旋の帰路とし…
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- 山内一豊陣跡
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- 西濃
- 一里塚から桃配山あたりに陣を置いた山之内一豊。南宮山の敵に動きがないため、有馬・蜂須賀の隊と共に前進します。大きな武功はありませんでしたが掛川城を率先して明け渡し、家康の信頼を得たことで合戦後、土佐の国主となりました。
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- 大野あけぼのミュージアム
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- 西濃
- 県内で町村で初となる大野町の埋蔵文化財センター、愛称「大野あけぼのミュージアム」が令和3年6月1日にオープンしました。大野町は古代大野郡の中心として栄えたところで、古墳と条里に代表される数多くの遺跡があります。埋蔵文化財センターはこれらの調査、研究…
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- 赤坂宿本陣跡・本陣公園
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- 西濃
- 江戸時代、大名・貴族の旅館として設置された中山道赤坂宿の本陣。間口24間4尺、邸の敷地は2反6畝26歩、建物の坪数は、およそ239坪もあり、玄関・門構えの豪勢なものでした。文久元年10月25日、皇女和宮がここに泊したことは有名です 。(皇女和宮ゆかりの地)
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- 駒野城跡
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- 西濃
- 慶長5年(1600年)8月19日、高須城を落とした東軍が攻め寄せたため、駒野城主 高木帯刀(たかぎたてわき)は、同族の高木貞友の説得を受けて開城しました。城山小学校の敷地内に本丸と土塁、二の丸の一部が残されています。※城山小学校の敷地内になるため、敷地内に…
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- 垂井一里塚・茶所
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- 西濃
- 垂井一里塚・・・徳川家康は、街道整備のため慶長九(1604)年に主要街道に一里塚の設置を命じた。国の史跡に指定された一里塚は、中山道では垂井一里塚と東京都板橋区志村の一里塚の2ケ所だけ、交通史上重要な遺跡となっている。日守の茶所・・・江戸末期、岩手の美…
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- 十一面観世音菩薩立像(別府観音堂)
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- 岐阜・中濃
- 別府観音堂に安置されている通称「別府観音」とよばれる観音像は、谷汲山の観音像と同作等身の像で、 古来より兄弟の霊像であると伝えられています。像高182.4cm・台座の高さ9.0cmの桧材一木造彫眼で衣文の彫り、裳の折り返し、裾など穏やかで丸みをおび、 温和で均整…
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- 森部の合戦場跡と出世の松(利家とまつ)
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- 西濃
- 永禄4(1561)年、織田信長は西美濃を征服しようと、本郷村より長良川を渡って森部村に進出、斎藤龍興の軍と戦いました。斎藤軍6千に対し、織 田軍1万5千で対戦。墨俣の下宿から押し寄せてきた斉藤軍を織田軍は、味方を三手に分け敵をはさみうちにして破りま…
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- 旧川上家別邸 萬松園
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- 岐阜・中濃
- 日本最初の女優として知られる川上貞奴が、昭和8(1933)年に、自らの菩提寺「貞照寺」の門前、木曽川を一望する景勝地に建てた別荘。鉄瓦で葺かれた屋根や凝った内部装飾などがほぼ創建当初の姿で保存されており、貞奴の暮らしぶりを窺い知ることができます。
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- 関ケ原町歴史民俗学習館
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- 西濃
- 2020年10月にリニューアルし、関ケ原町歴史民俗学習館として新しい施設になりました。「岐阜関ケ原古前城記念館」と共に、関ケ原町の郷土・歴史を大切にし、教育的視点・体験的要素要素を重視した施設です。全国の歴史ファンが集い、歴史を学び、語ることができる施設…
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- 中山道 伏見宿
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- 岐阜・中濃
- 伏見宿は元禄7年(1694年)土田宿の廃止に伴い整備された新宿です。木曽川の水運を利用した新村湊に近く、多くの物資の行交いとともに賑わいを見せていました。中山道ゆったり伏見宿は、宿内にある旧伏見郵便局舎を活用した観光案内所です。休憩所としても利用され、…
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- 宇喜多秀家陣跡 南天満山
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- 西濃
- 約1万7千という西軍の主力部隊を持ち、副総帥として関ケ原の合戦に参戦した宇喜多秀家。開戦直後に攻め込まれたという史実からも、激しい戦いが繰り広げられた場所だと考えられています。
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- せきがはら史跡ガイド
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- 西濃
- 「せきがはら史跡ガイド」は、関ケ原町の史跡講座を2年間受講した、関ケ原在住・出身者で構成されています。希望の時間やコースに合わせて関ケ原の名所古跡を案内してくれるので、旅のプランに組み込みやすいです。また、初めて関ケ原を訪れた方には、お任せコースも…
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- 加納家
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- 東濃
- 加納家は一部土蔵づくりの一風変わった外見で、軒の採光窓が特徴てす。加納家は、初代包房(かねふさ)から5代睦久(ちかひさ)まで続いた鉄砲鍛冶の家で鍛冶は、初代から3代竹治まで行っていました。包房が、1831(天保2)年ごろから当時の6代岩村藩主松平乗保の命で…
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- 土佐屋
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- 東濃
- 土佐屋は、今から約260年前に染物業を営んでいた商家で、建物自体は平成8年より復元工事が行われ、平成11年4月に「工芸の館」土佐屋としてオープンしました。当時の藍染めの工程を学ぶことができる染工場や、土佐屋の歴史をおさめた土蔵の展示室、庭の天正疎水などは…
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- 飯羽間城跡
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- 東濃
- 岩村氏から分出した遠山一族の遠山飯羽間(飯間)氏が本拠した城の跡地。岩村城の支城(岩村城を守るために造られた小さな城)であり、苗木城・明知城とお互いに連携を取りつつ、本城の外郭防衛線を形成していたといわれています。中でも飯羽間城は岩村本城に最も近…
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- 勝地峠 <島津の退き口ゆかりの地>
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- 西濃
- 標高183mの峠の麓で島津豊久隊は、最後の捨て奸(がまり)を行い、川上四郎衛のごうれいを受けた柏木源藤は、追撃する井伊直正の狙撃に見事成功しました。その後、東軍の追撃はようやく中止。島津豊久公は、残兵の助けを借りながら伊勢西街道「勝地峠」を越えました。
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- 富加町郷土資料館
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- 岐阜・中濃
- 現存する日本最古の戸籍の故地として注目されている。奈良東大寺正倉院には12通の古代戸籍が残り、中でも大寶貳年御野國半布里戸籍は54戸1119人の氏名、続柄等が書かれ、ほぼ完璧な形で残っています。そのレプリカを展示、発掘出土品、古民具、農機具等が展示…
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- 美濃路 墨俣宿脇本陣
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- 西濃
- 美濃路墨俣宿にあった脇本陣跡に建つ民家です。脇本陣は明治24年(1891年)の濃尾震災の際に倒壊し、現在は隣接する本正寺に山門が残るのみです。その後、再建されたこの建物は、脇本陣時代の構造を色濃く残しており、当時の宿場町の面影を偲ぶことができます。週末には…
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- 長束正家陣跡
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- 西濃
- 豊臣秀吉の仕え、高い算術能力で活躍し五奉行の一人。関ケ原の合戦では、伊勢方面から美濃へ転戦し、本戦では、南宮山に陣を構えたが、吉川広家にはばまれ、合戦に参戦することができず、領地である近江水口へ撤退した。
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