岐阜の
スポット・体験を探す
- 現在の検索条件
- 戦国・城郭
- 開元院
-
- 東濃
- 土岐頼元が創建したと伝わる曹洞宗寺院。本尊は、観音菩薩で土岐市の定林寺の本尊を移したと伝わっています。この本尊は、岐阜県の重要文化財となっています。
- more
- 津屋城跡
-
- 西濃
- 慶長5年(1600年)8月19日、西軍 高木正家の津屋城は、敗走する高須城兵を追撃した東軍により落城しました。津屋城跡には3年後、高須城主 徳永寿昌の許しを得て本慶寺が移されました。
- more
- 加賀野井城跡
-
- 岐阜・中濃
- 慶長5年(1600年)8月22日、木曽川下流の尾越に向かった福島正則・細川忠興・黒田長政・田中吉政・藤堂高虎らの東軍約16000は、対岸に西軍が柵を設けて待ち構えているため、さらに下流の加賀野井から密かに渡河し、城主不在の加賀野井城を瞬く間に落としました。加賀…
- more
- 白山神社 (旗懸けの松)
-
- 西濃
- 慶長5年(1600年)9月14日、岐阜から赤坂に向かった徳川家康公は、神戸の白山神社で休憩した折、松の大樹に旗を懸けたところから、その松は「旗懸けの松」と呼ばれるようになりました。また、そのとき神戸町八条の禅宗「瑞雲寺」の住職が大きな柿を献上したところ、家…
- more
- 光秀公手植えの楓
-
- 東濃
- 「金幣社八王子神社」境内にある「柿本人麻呂社」は、萬葉の歌人柿本人麻呂を祭神とする社殿です。伝承によれば、文武を志す光秀公が「学問所」には天神を、「八王子神社」には人麻呂を祀り、「社前」に紅葉(楓)を植えたと伝えられています。この社殿には、明智氏の…
- more
- 美濃路の松並木
-
- 西濃
- 垂井宿~大垣宿~墨俣宿~起宿~萩原宿~稲葉宿~清須宿~名古屋宿~宮宿と続く脇街道「美濃路」の起点。「中山道」と「東海道」を結ぶ、五街道に次ぐ重要な脇街道。☆「美濃路」は、中山道の垂井宿から、東海道の宮宿(名古屋市熱田)までの約57.5kmの街道。 &nb…
- more
- 十本木立場
-
- 岐阜・中濃
- この場所は当時、人夫が杖を立てて籠や荷物をおろし休憩したところから発展し、茶屋などが設けられ、やがて旅人の休憩場所になったといわれる十本木立場があります。『新撰美濃志』には「十本木茶屋は、木曽路通りの休み茶屋なり。数十株の松樹立ちたる故、かく名づく…
- more
- 四国堀跡
-
- 岐阜・中濃
- 大桑城下の谷筋をふさぎ止めるように造られた空堀と土塁の後があります。堀の深さ5m、幅約8mで、土塁の長さは約100mにわたって残っています。尾張、伊勢、越前、近江の4つの国の加勢を受けて築いたと伝えられています。明智光
- more
- 奥平貞治の墓
-
- 西濃
- JR関ヶ原駅から北西へ約4km弱の場所に「奥平貞治の墓」があります。関ケ原の戦いで貞治は家康の意を受けて、西軍の裏切りを約束していた小早川秀秋隊の監視をしていました。秀秋の裏切りの後には軍の先頭に立って松尾山を攻め降り、大谷勢と奮戦し、玉村あたりで討ち…
- more
- 卜全澤
-
- 西濃
- 三人衆の稲葉一鉄、安藤守就と共にかつて仕えた斎藤家への信長の稲葉山城攻めに参加。その後、信長に仕えた頃に出家、名を「直元」から「卜全」と号する。各地で活躍し、長島一向一揆を鎮めるため長島進行(第一次進行)時の柴田勝家に従う。その際、反撃に遭い殿軍を…
- more
- 明智光秀公学問所と天神神社
-
- 東濃
- 万ヶ洞にある天神神社は、明智光秀公が若かりし頃、京都嵯峨天竜寺の雲水・勝恵という学僧を招き、ここで学問に精進したと言われています。祭神は菅原道真公であり、京都北野の天満宮からの分祀と伝えられています。
- more
- 細川忠興陣跡
-
- 西濃
- 父・幽斎(藤孝)とともに当代一流の文化人として知られ、千利休の高弟である「利休七哲」にも名を連ねました。豊臣恩顧の武将でしたが、石田三成とは仲が悪く、この関ケ原の合戦では最初から東軍として参戦しました。というのも、徳川家康が会津征伐のため大坂を留守…
- more
- 藤堂高虎・京極高知陣跡
-
- 西濃
- 現在のJR関ケ原駅から国道21号線を越えたところにある関ケ原中学校の敷地内に、藤堂高虎と京極高知は陣を構えたとされています。両隊は合戦時に福島正則隊に続いて東軍左翼縦隊の第2陣として進軍し、開戦後は不破関跡付近まで進撃して、大谷吉継の隊に属していた平塚…
- more
- ぎふ里山景観研究所
-
- 岐阜・中濃
- "山県市を中心とした里山の資源を生かして、「交流人口の拡大」「農業の活性化」「地域との連携」「環境教育」「地域ブランドの認知度向上」などにより、里山に新たな価値を生み出し、里山景観を持続的に維持していくことを目指して、次のような事業を行います。…
- more
- 於牧の方の墓所
-
- 東濃
- 悲運の最期をとげた、於牧の方を偲び、里人の民が建立したとされています。将軍徳川吉宗によって制定された「公事方御定書」の翌年、1743年に建立された石塔には、当時の世評をはばかって「南無阿弥陀如来」とだけ刻まれ、樹齢400年を超える老樹「高野槙」を於牧の方…
- more
- 脇坂安治陣跡
-
- 西濃
- 関ケ原の南方、現在の名神高速道路と黒血川との間、松尾山のふもとに「脇坂安治陣跡」はあります。脇坂安治は朽木元綱・小川祐忠・赤座直保とともに西軍として布陣しましたが、小早川秀秋隊が寝返ると4隊とも大谷隊へ攻撃をしかけ、最終的には東軍を勝利に導きました…
- more
- 佐藤才治郎方政公 及び 武将の塔
-
- 岐阜・中濃
- 「佐藤才治郎方政」公は、鉈尾山城3代目城主で美濃上有知一帯を治めていた戦国武将。新加納の戦いにおいて、織田秀信と共に敗れ後、大垣城に入り西軍に属しました。関ケ原の合戦が、西軍敗戦で領地没収となり、「高澤観音 日龍峯寺」において従臣と共に割腹自害とな…
- more
- 六万墓
-
- 岐阜・中濃
- 斎藤道三との戦いで戦死した人を弔う六万墓の石碑は、大桑城下(現、山県市大桑地区)四国堀跡の近くに建っています。戦いの後に南泉寺住職の仁岫宗寿が焼香を行ったとされており、激しい合戦がこの地で行われたことを物語っています。明智光秀、麒麟がくる大河ドラ
- more
- 明白寺五輪塔
-
- 東濃
- 江戸時代に再興された黄檗宗寺院の境内に所在する瑞浪市内最大の五輪塔で、瑞浪市指定文化財です。鎌倉時代末期~南北朝時代の造立とみられ、一説には土岐頼基(土岐明智氏の祖)の墓とされています。
- more
- 南天満山・宇喜多秀家陣跡
-
- 西濃
- 杉の木立がうっそうとした南天満山の麓に天満神社があります。関ケ原合戦時には、この付近に兵約1万7千という西軍の主力部隊を布陣し、副総帥として参戦した宇喜多秀家。開戦の烽火と共に東軍・福島隊に攻め込まれた史実から、この辺りは大変に激しい戦いが繰り広げら…
- more