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- 戦国・城郭
- 史跡 江馬氏館跡公園
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- 飛騨
- 「史跡江馬氏館跡公園」は、室町時代から戦国時代にかけて北飛騨を治めていたといわれる武将・江馬(えま)氏の館跡に、中世の武家館(下館跡の庭園、庭園を鑑賞する会所、主門、土塀など)が復元された歴史体験ゾーンです。 公園のある江馬氏の館跡周辺は、近世以降…
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- 島左近陣跡
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- 西濃
- 関ケ原の合戦前日、兵500を率いて挑んだ岐阜県大垣市「杭瀬川の戦い」で勝利し、西軍の士気を高めた島左近は、笹尾山の麓に布陣します。そこで東軍からの猛攻を抑えますが、黒田隊の射撃により負傷し戦線を離脱しました。
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- 合渡川の戦い跡
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- 岐阜・中濃
- 米野の戦いの敗報を聞いた石田三成は、岐阜城の後詰として合渡川(長良川)右岸の河渡に「重臣 舞兵庫(まいひょうご)」を派遣。慶長5年(1600年)8月23日、黒田長政・田中吉政・藤堂高虎ら東軍は、合渡川を渡河して西軍を攻撃、不意をつかれた西軍は敗走し大垣城に…
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- 毛利秀元陣跡
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- 西濃
- 毛利秀元は、穂井田元清(毛利元就の四男・毛利元清)の長男として生まれる。関ケ原合戦では、西軍に属し毛利輝元の名代として南宮山に布陣。一族の吉川広家らの内通により、合戦では動けず参加できませんでした。(西軍敗戦の要因の1つ)合戦後は、吉川広重の思惑が…
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- 大谷吉継の墓・湯淺五助の墓
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- 西濃
- 石田三成の盟友だった大谷吉継は、病身を押して関ケ原の合戦に参戦し、三成への『義』を貫きます。当初から疑っていた小早川隊の裏切りにも動じず応戦しますが、配下の脇坂隊ら4隊までが攻撃をしかけてくると軍は混乱、吉継は自害してしまいました。尚、垂井町ゆかり…
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- 南泉寺
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- 岐阜・中濃
- 永正14年(1517年)に当時の守護・土岐政房(頼武・頼芸の父)が、仁岫宗寿を招いて「土岐氏の菩提寺」として開山しました。頼武の長男である頼純が、天文16年(1547年)に亡くなった際は、この寺に葬られたといい寺内には頼純の墓があります。頼芸が大桑城主の時代は…
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- 高原郷土館(神岡城)
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- 飛騨
- 町並みを見渡せる高台にある高原郷土館は、神岡城・旧松葉家住宅・鉱山資料館の3施設からなります。かつて、金森氏の出城として使われた神岡城。現在の天守閣は、昭和45年に神岡町のシンボルとして建てられましたが、当時の遺構を残す壕や石塁などは、戦乱の往事を思…
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- 大谷吉継顕彰碑
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- 西濃
- 富国強兵を掲げた明治期から戦時色を強めた昭和初期にかけて、関ケ原の合戦は、戦術・戦略研究の対象となり、古戦場では実際に演習も行われました。昭和15年(1940年)、不破古跡保存会によってこの顕彰碑も時代背景を反映し、大谷吉継の最後を武士道の模範と称えるも…
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- 米野の戦い跡
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- 岐阜・中濃
- 慶長5年(1600年)、池田輝政を中心とした東軍1万8千に対し、西軍3千のみの布陣。河田木曽川渡河の戦いの後、東軍は木曽川を渡り米野に上陸し西軍と激突しました。 戦いは、東軍大勝利に終わりました。これを米野の戦いといいます。 池田勢の一番槍の手柄を…
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- 池田恒興・元助父子の墓
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- 西濃
- 織田信長の乳兄弟であった池田恒興は、信長の死後大垣城主となった武将。清須会議四宿老のひとりとしても著名です。子の輝政は父の後を継ぎ、大垣城主を経て、後に姫路城主となりますが、父子は長久手の合戦で戦死し、池田町に葬られました。池田のお茶は、そんな池田…
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- 関ケ原古戦場 開戦地
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- 西濃
- 西軍は、笹尾山に「石田三成」、松尾山に「小早川秀秋」という鶴翼の陣を形成。東軍は、関ケ原盆地中央で「福島正則」を先方とした魚鱗の陣を形成。9月15日 「松平忠吉・井伊直政」が宇喜多隊に発砲したことを機に天下分け目の戦いが始まりました。
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- 西首塚
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- 西濃
- 関ケ原一帯を領していた竹中重門は、関ケ原の合戦翌日、戦いによって壊れた神社や戦死者の処理を家康に命じられ、東西2カ所に首塚を造営しました。寛政5(1793)年に西首塚の敷地内に建立された観音堂には、馬頭観音や千手観音が安置されています。
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- 御嵩城址
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- 岐阜・中濃
- 御嵩城には、権現山城と本陣山城の2つの城があり、築城年代は不詳ですが、小栗信濃守という武将の居城だったといわれています。伝承によれば、金山城主森長可は権現山城に大軍をもってたびたび攻め込みましたが、権現様のお使いの白い大蛇が霧を出して阻み、攻略でき…
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- すわがね(鶴岡山)
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- 東濃
- 「すわがね」は、鶴岡山の山頂732メートルに位置し、かつて織田信長軍の諏訪ヶ峯陣城があった場所です。空気が澄んだ日には、山頂から愛知県吉良の海が見えることから、明智町吉良見地区の語源にもなっています。近年は人が近寄らず荒れ果ててしまっていましたが、地…
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- 乱闘橋の戦い跡 乱闘橋供養塔
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- 岐阜・中濃
- 慶長5年(1600年)8月、西軍・織田秀信(織田信長の嫡孫・三法師)と東軍・池田輝政が戦い、橋は乱闘橋と呼ばれるようになりました。現在、このあたりにあった乱闘橋はありませんが乱闘橋供養塔があります。乱闘橋があった境川は、1185年の大洪水で流れが変わる前は木…
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- 禅幢寺
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- 西濃
- 永禄元年(1558)竹中氏が6000貫の領主となり、竹中半兵衛は、父重元と共に菩提山に城を築きました。天正7年(1579)播州三木(現在の兵庫県三木市)の陣において行年36歳の若さで病没した半兵衛の菩提を弔うために、その子重門がこのお寺に墓を移しました。お寺の背…
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- 増島城跡(岐阜県指定史跡)
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- 飛騨
- 増島城は、金森長近が飛騨国支配における古川盆地の押さえとして築いた平城です。高山藩2代目藩主・金森可重が初代藩主を務めました。 現在は、古川小学校と飛騨市特別支援学校の間に、櫓台の石垣と堀の一部が残っています。櫓台の上には、増島天満神社(気多若宮神…
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- 曽根城跡
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- 西濃
- 西美濃三人衆の稲葉一鉄(いなばいってつ)も城主を務めた曽根城は、関ケ原の合戦当時は西尾光教(にしおみつのり)が城主。光教が東軍に与したため、石田三成は近隣諸将に打ち壊しを命じます。その後、東軍が赤坂に進出すると、松平康長・水野勝成らが入城し、大垣城…
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- タルイピアセンター・歴史民俗資料館
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- 西濃
- 竹中半兵衛の生涯、中山道と美濃路の追分として賑わった垂井宿などを紹介している。また、古墳の石室を再現しているコーナーもある。
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- 龍護寺
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- 東濃
- 明智光秀公供養塔 明知遠山家の菩提寺である龍護寺に、明智光秀公の供養塔があります。 光秀公に関する碑は、「その悲痛な思いで」ことごとく割れるといった通説どおり、斜めに大きくひび割れが入っています。 毎年5月3日には、光秀まつりとあわせて、明智光秀公…
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