岐阜の
スポット・体験を探す
- 現在の検索条件
- 戦国・城郭
- 島津義弘陣跡<島津の退き口ゆかりの地>
-
- 西濃
- 神明神社裏側に「島津義弘陣跡」はあり、西軍布陣地のほぼ中央部に位置しています。島津隊はわずか800名程度ともいわれる少数部隊で、鉄砲を巧妙に使って戦い、陣中では壕も掘らず、柵も作らず、鉄砲隊は交互に入れ替わり狙撃し、騎馬隊を打ち落としていたといわれて…
- more
- 池田輝政陣跡・春王安王墓
-
- 西濃
- 岐阜城攻略で二の丸一番乗りを果たした池田輝政は、関ケ原合戦では、南宮山の軍勢に備えて布陣しました。陣跡の石碑は、室町時代の史跡である春王・安王の墓と同じ敷地に建っています。その後、輝政公は、姫路藩初代藩主として姫路城を現在残る姿に大規模に修築します…
- more
- 仲深山砦
-
- 東濃
- 仲深山砦は、白鷹城(明知城)の南の万ヶ洞を隔てた尾根の先端に立地し、東西2つの曲輪群から構成されています。東側の曲輪は、背後(東端)を二重堀切で画し、北側には帯曲輪が巡り、その東端は、横堀状になり、3本の竪堀を設けています。掘切を隔てた西側の曲輪は…
- more
- 美濃路一里塚
-
- 西濃
- 慶長9年、徳川家康は日本橋を起点に主要道路の一里ごとに塚を築いた。後に脇街道にも築き、五間(約9m)を基準に、塚の上に榎や松を植えて旅人に便利を与えた。(かつて入方から町屋まで約1300mの間は立派な松並木があったが昭和17年頃、軍需の松根油などを作るため…
- more
- 大御堂城跡
-
- 西濃
- 今から450年程前に生まれ、戦国時代に豊臣秀吉の軍師として智将振りを発揮したものの、惜しくも志半ばの36歳にして病没した。竹中家ゆかりの八幡神社の脇に生誕の地を示す碑が建立されています。隣接する月真寺には、半兵衛の父、竹中重利の墓や、旗本の加藤平内歴代…
- more
- 上恵土城址
-
- 岐阜・中濃
- 戦国時代の15世紀末頃に荏土城と呼ばれていた平城で、後に上恵土城と称されるようになりました。築城年代は定かではありませんが、天正10年(1582)頃の城主長谷川五郎右衛門は大森城主奥村又八郎と謀って、金山城主森長可を攻め滅ぼそうとしますが、逆にその謀議の報…
- more
- 雲龍寺
-
- 飛騨
- もとは720年に創建された妙観寺(みょうかんじ)という寺院でしたが衰退し、1395年頃、曹洞宗雲龍寺として再建されました。本能寺の変で戦死した飛騨国主 金森長近(かなもりながちか)の長男 長則(ながのり)の菩提寺であり、1590年頃に長近が建物を修営したと伝わ…
- more
- 史跡 西高木家陣屋跡
-
- 西濃
- 近世陣屋として良好に残る石垣・墓所・地下機構・建造物などの現地遺構に加え、絵図類を含む膨大な量の古文書群が残り、近世幕藩領主の姿を豊富な資料によって現在に伝える全国的にも貴重な遺跡です。
- more
- 大塚権太夫の塚
-
- 岐阜・中濃
- この塚には、米野の戦いで討死した東軍の武将「一柳直盛」老臣「大塚権太夫」が葬られていると伝わっています。この戦いは、木曽川を渡河する東軍「池田輝政」ら兵約18000と米野付近に布陣した西軍の岐阜城主「織田秀信」の兵約3200によって関ケ原の合戦の前哨戦とし…
- more
- 無動寺の戦い跡 光得寺 梵鐘
-
- 岐阜・中濃
- 天文13年(1544年)8月、斉藤道三と尾張(現愛知県)の織田信秀(織田信長)の父との戦いの地。織田勢5000余人は、越前の朝倉勢7000余人と相呼応して、8月15日を期して稲葉山を挾撃します。斉藤道三の娘婿である土岐頼香(よりたか)を大将にして、無動寺村の安養山光…
- more
- 連理の榊
-
- 西濃
- 国の天然記念物指定を受けたサカキで、推定樹齢300~400年の大木。根本は二幹に分かれていますが、枝が絡み合って一体になっていることから、連理の榊とわれています。関ヶ原合戦時には西軍の長宗我部盛親がこの辺りに陣を張りました。
- more
- 長松城跡
-
- 西濃
- 大垣市荒崎小学校付近が、竹中半兵衛の同族 竹中一族ゆかりの城「長松城」の跡と考えられており「長松城址」の標石が立てられています。ここは同城堀のうちの一部であり、古城図を見ると旧長松村の集落全体が、城郭の形を成しています。その城郭を囲むように曲がり角…
- more
- 北塚
-
- 西濃
- 輪之内町東大藪の北部、大藪地内の田んぼの中に、一畝ほど小高く土を盛り上げた塚(現在は史跡として整備しています)。関ケ原の合戦の最初の前哨戦「福束城の戦い」において戦死した東西両軍の死者をあわれんで土地の人たちが埋葬して成仏を祈った塚。お堂の仏様には…
- more
- 妻木城士屋敷跡
-
- 東濃
- 妻木城のある通称城山の北側の山麓には、御殿と呼ばれる領主の館と家臣の武家屋敷が築かれ、万治元年(1658年)の妻木家断絶まで陣屋として存続しました。屋敷敷地を区切っていた石垣や石段、井戸などが現在も残されており、山麓の御殿跡および武家屋敷は「妻木城士屋敷…
- more
- 平塚為広碑
-
- 西濃
- 平塚為広碑は「大谷吉継陣跡」の山を下りて道の東側にあります。関ケ原に隣接した美濃垂井(1万2千石)を治めていたこともあってか、合戦ではいち早く西軍として参戦しました。その背景には大谷吉継と為広が盟友であったという話もあるようで、合戦当日は大谷隊前方に…
- more
- 権現のぞき
-
- 西濃
- この辺り(大垣市河間)を「権現のぞき」と呼んでいたと伝えられています。関ケ原の合戦の時、大垣城に居た西軍 石田三成が、東軍の陣地「岡山(勝山)」を望む望楼を立てました。慶長5年(1600年)9月14日、関ケ原の合戦の前哨戦 杭瀬川の戦いにも使われま…
- more
- 乱闘橋の戦い跡 乱闘橋供養塔
-
- 岐阜・中濃
- 慶長5年(1600年)8月、西軍・織田秀信(織田信長の嫡孫・三法師)と東軍・池田輝政が戦い、橋は乱闘橋と呼ばれるようになりました。現在、このあたりにあった乱闘橋はありませんが乱闘橋供養塔があります。乱闘橋があった境川は、1185年の大洪水で流れが変わる前は木…
- more
- 河田木曽川渡河の戦い跡・木曽川文化資料館
-
- 岐阜・中濃
- 岐阜城城主・織田秀信(かつての三法師)を攻めるため木曽川を渡る東軍 (池田輝政・浅野幸長・山内一豊等) とそれを迎撃する西軍 (木造具政・百々綱家等) の戦いです。東軍は、木曽川渡河を決行、木曽川の中洲の小屋場島(現・各務原市)まで進軍し陣を張る。西軍は、…
- more
- 行徳岩 (武儀川)
-
- 岐阜・中濃
- 「明智光秀公の母」が懐妊していた時、この岩に立って行水し、「私の生む子が男であったら、仮令三日でもよいから天下を取るような立派な男子を、もし女であったら天下一の美女を御さづけ下さい」と祈ったと伝えられています。
- more
- 田中吉政陣跡
-
- 西濃
- 「田中吉政陣跡」の碑は「徳川家康最後陣跡」のすぐ隣にあります。以前は、関ケ原字甲斐墓という場所にあり、現在の陣場野に移されたのは昭和62年のことでした。『関原合戦図志』によると、合戦時の田中隊のはっきりとした布陣地はわかっていないようですが、田中隊は…
- more