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- 戦国・城郭
- 妙應寺
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- 西濃
- 妙應寺(妙応寺)縁起によれば、今須領主の長江重景公が、亡き母(妙応)が生前領民たちを苦しめた報いをうけて苦しんでいることを知り、母の供養のために創建したとされています。平成22年(2010年)に開創六百五十年大遠忌を勤め、「形と心」の両面を兼ね備えた禅の…
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- 石田三成陣跡 笹尾山
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- 西濃
- 関ケ原の地を一望でき、北国街道も押さえられる山頂に布陣。麓に陣を置いた島左近らの隊が善戦しますが、次第に押し込まれ、小早川秀秋の東軍への寝返りを機に、西軍は次々に敗走。三成も伊吹山方面へ逃れました。
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- 可児市戦国山城ミュージアム
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- 岐阜・中濃
- 可児市戦国山城ミュージアムでは、可児市兼山地区に残る国史跡「美濃金山城跡」と城主森氏をはじめ市内各地の山城を紹介しています。本施設は、明治18年(1885年)に竣工した小学校校舎であり、懸け造りの3階建て(南面からは2階造り、北面からは総3階)という造りが…
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- 白拍子谷 <島津の退き口ゆかりの地>
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- 西濃
- 烏頭坂で重傷を負った島津豊久公を、家臣・川口運右衛門の意を受けた三輪内助入道一斉がこの地に案内したが、豊久公は自刃して果てた。白拍子谷は、伊勢街道(伊勢西街道)を入った名及集落の南を流れる堂木川の対岸にあり、小さな標柱が立つのみで、辺り一帯はひっそ…
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- 徳川家康最初陣跡 桃配山
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- 西濃
- 東軍の総大将・徳川家康は、慶長5(1600)年9月14日に岡山(後に「勝山」と呼ばれる。岐阜県大垣市)へ着陣。翌15日の午前、桃配山(岐阜県関ケ原町)に布陣。その後、戦況を把握し、好転せざるべく、ここから前進し、前線近くで東軍を鼓舞しました。
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- 杭瀬川古戦場
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- 西濃
- 慶長5年(1600年)9月14日、大垣城を出陣した西軍「島左近・蒲生備中(がもうびっちゅう)」ら軍勢約500人は、一隊を伏せて杭瀬川を渡り、東軍「中村一栄」隊を挑発、出陣してきたところを偽りの退去で誘い込み、これを打ち破りました。杭瀬川の広大な河川敷が、往時…
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- 松平忠吉・井伊直政陣跡
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- 西濃
- 関ケ原の合戦で、井伊直政は事実上の総大将で先鋒役の意識が強く、直政の娘婿で初陣でもある松平忠吉に手柄を立てさせたい一心でした。東軍先鋒は、福島隊と決まっていましたが、午前8時頃に福島隊の先頭隊長の可児才蔵の制止を振り切り、宇喜多隊へ発砲し開戦となり…
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- 濃姫遺髪塚
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- 岐阜・中濃
- 濃姫は、斎藤道三と可児明智城主(現在の可児市)明智三継の娘で才色兼備と言われた小見の方(おみのかた・道三の正室)との間に生まれた。濃姫が信長と結婚後、どのような生活を送ったかは、資料が少ないためほとんどわかっていないが、本能寺の変で信長と共に亡くな…
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- 苗木遠山史料館
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- 東濃
- 苗木城と苗木遠山家の貴重な資料を展示しています。苗木城の唯一の建物遺構である風吹門の柱と門扉が保管されているほか、遠山家に伝わる実際に使われていた武具などが展示されています。苗木城復元模型は、建物の様子や縄張りがよくわかり、史料館を見学してから苗木…
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- 卜全塚(氏家卜全の墓)【海津市】
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- 西濃
- 氏家卜全は、戦国末期の大垣城主で織田信長に仕えており、当時西美濃三人衆といわれた実力者の一人でした。元亀元(1570)年、伊勢長島で勢力を誇っていた願証寺の門徒六万余は織田信長に反抗していた石山本願寺の寺に応じ尾張に攻め込んで織田信興(信長の弟)を…
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- 長寿院盛淳の墓・琳光寺
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- 西濃
- 島津義弘公の家老・長寿院盛淳は、島津豊久公に次いで捨て奸(すてがまり)を行い、義弘公から賜った陣羽織を身につけ、「我こそは義弘也」と名乗り、主君の身代わりとなって討ち死にしました。琳光寺には、盛淳公を悼んで宝暦治水の薩摩藩士が刻んだ五輪塔と、子孫が…
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- 瑠璃光禅寺 <島津の退き口ゆかりの地>
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- 西濃
- 瑠璃光禅寺(瑠璃光寺)本堂には、島津豊久公の位牌がおさめられているほか、ゆかりの梵鐘もあります。この寺の裏手の森の中には、島津塚と呼ばれる豊久公の五輪塔が祀られています。関ケ原の合戦、伊勢街道から薩摩への道は、まだまだ続く!! ※島津豊久公自害…
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- 明知城跡
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- 東濃
- 明知城は、恵那市南部では岩村城に次ぐ規模の城郭である。明知遠山氏代々の居城であった。明知遠山氏は、織豊期に一時この地を離れるが、慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の合戦後に復帰する。江戸時代には旗本となり、存続した。城跡は現在公園となり、散策道も付けられ…
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- 竹中半兵衛公の像と垂井町観光案内所
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- 西濃
- 竹中半兵衛の銅像は、JR垂井駅北口ロータリーの他、竹中家陣屋門の前とタルイピアセンター内玄関、垂井町の3箇所でご覧いただけます。垂井駅北口ロータリーにある「垂井町観光案内所」では、垂井抜きに関ケ原の合戦は語れないなど各種パンフレットを入手でき、又、…
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- 島津越え(五僧峠)<島津の退き口ゆかりの地>
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- 西濃
- 鈴鹿山系を縫うように広がる時山は、駒野越えで再び上石津に入った島津義弘本隊が、途中出会った織田秀信家臣の小林新六郎の案内で五僧峠を越えて近江高宮に向かった。険しい山道を上り、五僧峠を越えて甲賀から堺浦に出て船で薩摩に帰ったと記されています。五僧峠は…
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- 福束城の戦い跡
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- 西濃
- 南濃を平定するため「関ケ原の合戦」の約1か月前 慶長5年(1600年)8月16日に「関ケ原の合戦 最初の前哨戦」がありました。福束城の戦いは、東軍 福島正則が再三の誘いをしりぞけて西軍に加わった「丸茂兼利」の居城であり舟運の要衝「福束城」を今尾城主 市橋長勝…
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- 山口城跡
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- 岐阜・中濃
- 標高345mの権現山の山頂に平場が築かれています。これが山口城跡です。江戸時代初期の『美濃国諸旧記』によると鎌倉時代初期に梶原景時が城主であったと記されています。ここは谷汲街道と越前街道が交差し、根尾川が濃尾平野に注ぎ込む交通、軍事、治水の要所とな…
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- 菩提山城跡
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- 西濃
- 竹中半兵衛の居城が構えられた菩提山は、竹中氏陣屋の北西にあります。標高402mの山頂にあり、2.7kmのハイキングコースを登ります。山城跡は、南北約260m・東西最大60mと広大な広さでした。
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- 織田塚
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- 岐阜・中濃
- 天文16年(1547年)、織田信長の父・信秀が岐阜(当時は井ノ口)に攻め入った際、斎藤道三に大敗し、信長の叔父・信康を始めとした5,000人ともいわれる戦死者が出ました。この戦死者を弔うための織田塚が築かれました。現在、織田塚は円徳寺境内(浄泉坊)と岐阜市霞町…
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- 金幣社 八王子神社
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- 東濃
- 天照大神の八人の王子を祀り、平安時代の天暦三年(949)に創建された千年を超える歴史をもつ産土神。○柿本人麻呂社と明智光秀公手植えの楓万葉の歌人、柿本人麻呂を祭神とする社殿。伝承によれば、文武を志す明智光秀公が学問所には天神を八王子神社には人麻呂を祀り…
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